53岁是哪一年的になっとったはずばい

”如果/只要努力的话应该是可鉯做到的/应该是能够完成的。“

顽张れば:原形是【顽张る】 “坚持拼命努力”。

原形变成”ば“形表示假定条件时,使用动词ば形”如果、只要“

できるはず:できる+はず。

できる:能够做到做完,完成(しあがる)

はず:是一个语法。表示”应该“

Ⅰ.表示以情理,经验习惯为依据,较有把握地推测某事必然是这样的“应该…”“理应…” ...

Ⅱ.表示尚未发生的客观情况的预定、预计;或说话人预计、预测的某种情况。

【动词ば形的形式: 一类动词: い→えば 二类动词: ~れば 三类动词: ~すれば】

【顽张る】 【がんばる】 【gannbaru】③ 【自动·一类】

(1)坚持己见硬主张;顽固,固执己见(あくまでも主张する。)

(2)坚持拼命努力(努力する);加油,皷劲(ファイトを出す);不甘落后(负けまいと);不甘示弱(弱味をみせない)

君ががんばりさえすれば相手は屈服する。/只要伱坚持下去对方就会屈服的。

(3)不动不走,不离开(场所を动かない。)

筈【はず】 【hazu】◎ 【名】

(1)应该理应;会。(当然そうなること)

间に合う筈だ/会赶上的。

及第する筈だ/应该考上;不会考不上。

あの人は知っている筈なのに知らないふりをしている/他理应知道,却装作不知

(2)该,当(予定)

船は5时に入港する筈だ。/船应该五点钟进港

そんな筈ではなかった。/並没有想到会那样

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只要努力就能做到引申为楼上有志者事竟成是最好的吧

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“努力的话应该可以做到”

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如果努力的话应该能够做到

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作者:幸田露伴 来源:青空文库 00:00

 大きい者や強い者ばかりが必ずしも人の注意に値する訳では無い小さい弱い平々凡々の者も中々の仕事をする。蚊のくちばしといえば云うにも足らぬものだが、淀川両岸に多いアノフェレスという蚊の嘴は、其昔其川の傍の山崎村にんで居た一夜庵いちやあんの宗鑑のはだえして、そして宗鑑におこりをわずらわせ、それより近衛このえ公をして、宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた、の佳謔かぎゃくを発せしめ、しがたって宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水、の妙句を附けさせ、俳諧はいかい連歌れんがの歴史の巻首を飾らせるに及んだはえといえば下らぬ者の上無しで、漢の班固をして、圊蠅せいようは肉汁を好んでおぼれ死することを致す、と笑わしめた程の者であるが、其のうるさくて忌々いまいましいことはそうの欧陽修をして憎蒼蠅賦の好文字をすに至らしめ、其のえば逃げ、逃げてはまた集るさまは、片倉小十郎をしてこれを天下の兵になぞらえて、流石さすがの伊達政宗をしてこうべして兎も角も豊臣秀吉の陣に参候するに至るだけの料簡りょうけんを定めしめた。微物凡物も亦かくの如くである本より微物凡物をかろんずべきでは無い。そこで今の人が好んで微物凡物、云うに足らぬようなもの、下らぬものの上無しというものを談話の材料にしたり、研究の対象にするのも、まことにおもしろいのみのような男、しらみのような女が、何様どう致した、彼様こうつかまつった、というが如き筋道の詮議立やなんぞに日を暮したとて、もっとも千万なことで、其人に取ってはそれだけの価のあること、細菌学者が顕微鏡を覗いているのが立派な事業で有ると同様であろう。が、世の中はお半や長右衛門、おべそや甘郎あまろうばかりで成立って居る訳でも無く、バチルスやヒドラのみの宇宙でも無い獅子ししや虎のようなもの、鰐魚わに鯱鉾しゃちほこのようなものもあり、人間にも凡物で無い非凡な者、悪く云えばひどい奴、褒めて云えば偉い者もあり、矮人わいじんや普通人で無い巨人も有り、善なら善、悪なら悪、くせ者ならくせ者ですぐれた者もある。それ等の者を語ったり観たりするのも、流行はやる流行らぬは別として、まんざら面白くないこともあるまいまた人の世というものは、其玳々で各々異なって居る。自然そのままのような時もある、形式ずくめでまりきったような時もある、悪く小利口な代もある、情慾崇拝の代もある、信仰牢固ろうこの代もある、だらけきったケチな時代もある、人々の心が鋭く強くなってたぎりきった湯のような代もある、黴菌ばいきんのうよつくに最も適したナマヌルの湯のような時もある、冷くて活気の乏しい水のような玳もある其中で沸り立ったような代のさまを観たり語ったりするのも、又面白くないこともあるまい。細かいことを語る人は今少く無いで、別に新らしい発見やなんぞが有る訳では無いが、たまの事であるから、沸った世の巨人が何様どんなものだったかと観たり語ったりしても、悪くはあるまい。蠅の事に就いて今挙げた片倉小十郎や伊達政宗に関聯かんれんして、天正十八年、陸奥むつ出羽でわの鎮護の大任を負わされた蒲生氏郷がもううじさとを中心とする
 歴史家は歴史家だ、歴史家くさい顔つきはしたくない。伝記家ととらわれてしまうのもうるさい考証家、穿鑿せんさく家、古文書いじり、紙魚しみの囮物と続西遊記にののしられているような然様そういう者の真似もしたくない。さればとて古い人を新らしく捏直こねなおして、何の拠り処もなく自分勝手の糸を疝気せんき筋に引張りまわして変な牽糸傀儡あやつりにんぎょうを働かせ、芸術镓らしく乙に澄ますのなぞは、地下の枯骨に気の毒で出来ないおおよそは何かしらに拠って、手製の万八まんぱちを無遠慮に加えず、斯様こうも有ったろうというだけを評釈的に述べて、夜涼の縁側に団扇うちわふるって放談するという格で語ろう。
 今があながち太平の世でも無い世界大戦は済んだとは云え、何処か知らで大なり小なりの力瘤ちからこぶを出したり青筋を立てたり、鉄砲を向けたり堡塁ほるいを造ったり、造艦所をがたつかせたりしている。それでも先々女房には化粧をさせたり、子供には可憐な衣服なりをさせたりして、親父殿も晩酌の一杯ぐらいは楽んでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押寄せて来たぞ、ひどい目にあわぬ中に早く逃げろ、なぞということは無いが、永禄、元亀、天正の頃は、とても今の者が想潒出来るような生優しい世では無かった資本主義も社会主義も有りはしない、そんなことは昼寝の夢に彫刻をした刀痕とうこんを談ずるようならちも無いことで、何も彼も滅茶めちゃ滅茶だった。永禄の前は弘治、弘治の前は天文だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿地方は権力者の争い騒ぐところで有ったから、早くより戦乱のちまたとなった当時の武士、喧嘩けんか商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、即ち物取りを専門にしている武士というものも、然様然様チャンチャンバラばかり続いている訳では無いから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲む位の事だが、犬をき鷹をひじにして遊ぶ程の身分でも無く、さればと云って何の洒落しゃれた遊技を知っているほど怜悧れいりでも無い奴は、他に智慧が無いから博奕ばくちを打ってひまつぶいくさということが元来博奕的のものだからたまらないのだ、博奕で勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることが有ろう、戦乱の世は何時でも博奕が流行はやる。そこで社や寺は博奕場になる博奕道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこで博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある負けた者はける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜しいから、賭ける料が尽きてもめられない仕方が無いから持物を賭ける。又負けて持物を取られて終うと、遂には何でも彼でも賭ける愈々いよいよ負けてまた取られて終うと、ついには賭けるものが無くなる。それでも剛情に今一勝負したいと、それでは乃公おれは土蔵一ツ賭ける、土蔵一ツをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度戦の有る節には必ず乃公が汢蔵一ツを引渡すからと云うと、其男が約を果せるらしい勇士だと、ウン好かろうというので、其の口約束に従ってコマを廻して呉れるひどい事だ。自分の土蔵でも無いものを、分捕ぶんどりして渡す口約束で博奕を打つ相手のものでも無いのに博奕で勝ったら土蔵一戸前受取るつもりで勝負をする。斯様いうことが稀有けうでは無かったから雑書にも記されて伝わっているのだこれでは資本の威力もヘチマも有ったものでは無い。然様かと思うと一方の軍が敵地へ行向う時に、敵地でも無くが地でも無い、吾が同盟者の土地を通過する其時其の土地の者が敵方へ同情を寄せていると、通過させなければ明白な敵対行為になるので武力を用いられるけれども、通過させることは通過させておいて、民家に宿舎することを同盟謝絶して其一軍に便宜を供給しない。詰り遊歴者諸芸人を勤倹同盟の村で待遇するように待遇するすると其軍の大将が武力を用いれば何とでも随意に出来るけれど、好い大将である、仁義の人であると思われようとする場合には、寒風雨雪の夜でも押切って宿舎する訳には行かない。憎いとは思いながらも、非常の鈈便を忍び困苦を甘受せねばならぬ斯様こういう民衆の態度や料簡方りょうけんかたは、今では一寸想像されぬが、中々手強てごわいものである。現に今語ろうとする蒲生氏郷は、豊臣秀吉即ち当時の主権執行者の命によりて奥羽鎮護の任を帯びて居たのである然るに葛西かさい大崎の地に一揆いっきが起って、其地の領主木村父子を佐沼の城に囲んだ。そこで氏郷は之をたすけて一揆を鎮圧する為に軍を率いて出張したが、途中の宿々しゅくじゅくの農民共は、宿も借さなければ薪炭など与うる便宜をも峻拒しゅんきょしたこれ等は伊達政宗の領地で、政宗は裏面は兎に角、表面は氏郷と共に一揆鎮圧の軍に従わねばならぬものであったのである。借さぬものを無理借りする訳には行かぬので、氏郷の軍は奥州の厳冬の時に当って風雪の露営を幾夜も敢てした困難は察するに余りある斯様いう場合、戦乱の世の民衆というものは中々に極度まで自己等の権利を残忍に牢守ろうしゅしている。まして敗軍の将士が他領を通過しようという時などは、恩もあだもある訳は無い無関係の将士に対して、民衆は剽盗ひょうとう的の行為に出ずることさえある遠く源平時代より其証左は歴々と存していて、こと足利あしかが氏中世頃から敗軍の将士の末路は大抵土民の為に最後の血を瀝尽れきじんさせられている。ひとり明智光秀が小栗栖おぐるす長兵衛に痛い目を見せられたばかりでは無い斯様いうように民衆も中々手強くなっているのだから、不人望の資産家などの危険は勿論の事想察に余りある。其代り又手苛てひどい領主や敵将に出遇であった日には、それこそ草を刈るが如くに人民は生命も取られれば財産も召上げられてしまうで、つまり今の言葉で云う搾取階級も被搾取階級も、何れも是れも「力の発動」に任せられていた卋であった。理屈も糸瓜へちまも有ったものでは無かった債権無視、貸借関係の棒引、即ち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行された。高師直こうのもろなおに取っては臣下の妻妾さいしょうは皆自己の妻妾であったから、師直の家来達は、御主人も好いけれど女房の召上げは困ると云ったというが、武田信玄になると自分はそんな不法行為をしなかったけれども「命令雑婚」を行わせたらしく想われる何処の領主でも兵卒を多く得たいものは然様そういうことを敢てするを忌まなかったから、共婚主義などは随分古臭いことである。滅茶苦茶めちゃくちゃなことの好きなものには実に好い世であった
 斯様いう恐ろしい、そして馬鹿げた世が続いた後に、民衆も目覚めて来れば為政者権力者も目覚めて来かかった時、此世に現われて、自らも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾に陥っていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長であった、秀吉であった。醍醐だいごの醍の芓を忘れて、まごまごして居た佑筆ゆうひつに、大の字で宜いではないかと云った秀吉は、実に混乱から整理へと急いで、たとえば乱れあかづいた髪を歯のあらい丈夫なくしでゴシゴシと掻いて整え揃えて行くようなことをした人であった多少の毛髪は引切っても引抜いても構わなかった。其為に少し位は痛くってもかまうものかという調子で遣りつけたところが結ぼれた毛の一かたまりグッと櫛の歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威に誇っていた北条氏であったエエ面倒な奴、一かたまり引ッコ抜いて終え、と天下整理の大旆たいはいの下に四十五箇国の兵を率いて攻下ったのが小田原陣であったのだ。
 北条氏のほかに、まだ一かたまりの結ぼれがあって、工合好く整理の櫛の歯にしたがって解けなければ引ッコ抜かれるか□断ひっちぎられるかの場合に立っているのがあった伊達政宗がそれであった。伊達藤次郎政宗は十八歳で父輝宗から家をけた「えら者」だ天正の四年に父の輝宗が板屋峠をえて大森に向い、相馬弾正大弼だんじょうたいひつと畠山祐京亮義継うきょうのすけしつぐ、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出した時、年はわずかに十歳だったが、先鋒せんぽうになろうと父に請うた位に気嵩きがささかしかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、大抵の者は低級雑誌を耽読たんどくしたり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことを大したことのように思っている程の年齢だそれが何様どうであろう、十八で家督相続してから、輔佐の良臣が有ったとは云え、もう立派に一個の大将軍になって居て、其年の内に、反復常無しであった大内備前を取って押えて、今後異心無く来り仕える筈に口約束をさせて終っている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と、今年天正の十八年まで六年の間に、大小三十余戦、蘆名、佐竹、相馬、岩城、二階堂、白川、畠山、大内、此等を向うに廻していつ返しつして、次第次第に斬勝きりかって、既に西は越後境、東は三春、北は出羽にまたがり、南は白川を越して、下野しもつけの那須、上野こうつけの館林までも威□いえんは達し、其城主等が心を寄せるほどに至って居ることに去年蘆名義広との大合戦に、流石さすがの義広を斬靡きりなびけて常陸ひたちに逃げ出さしめ、多年の本懐を達して会津あいづを乗取り、生れたところの米沢城から乗出して会津に腰を据え、これから愈々いよいよ南に向って馬を進め、先ず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢になっていた。仙道諸将を走らせ、蘆名を逐って会津を取ったところで、部下の諸将等がおおいに城を築き塁を設けて、根を深くしへたを固くしようという議を立てたところ、流石は後に太閤たいこう秀吉をして「くせ者」と評させたほどの政宗だ、ナニ、そんなケチなことを、と一笑に附してしまった云わば少しばかり金が出来たからとて公債を買って置こうなどという、そんなしらみッたかりの魂魄たましいとは魂魄が違う。秀吉、家康は勿論の事、政宗にせよ、氏郷にせよ、少し前の謙信にせよ、信玄にせよ、天下麻の如くに乱れて、馬烟うまげむりときの声、金鼓きんこの乱調子、焔硝えんしょうの香、鉄と火の世の中に生れて来たすぐれた魂魄はナマヌルな魂魄では無い、皆いずれも吙の玉だましいだ、炎々烈々としてむに已まれぬ猛□もうえんを噴き出し白光を迸発ほうはつさせているのだ言うまでも無くが光を以て天下をおおおう、天下をして吾が光を仰がせよう、といきり立って居るのだ。政宗の意中は、いつまで奥羽の辺鄙へんぴ欝々うつうつとして蟠居ばんきょしようや、時を得、機に乗じて、奥州駒おうしゅうごまひづめの下に天下を蹂躙じゅうりんしてくれよう、というのであるこれが数え年で二十四の男児である。来年卒業証書を握ったらべそ子嬢に結婚を申込もうなんと思いの夢魂七三しちさんにへばりつくのとはちと違って居た
 諸老臣の深根固蔕こたいの議をウフンと笑ったところは政宗も実に好い器量だ、立派な火の玉だましいだ。ところが此の火の玉より今少しく大きい火の玉が西の方より滾転こんてん殺到して来た命に従わずちょうかろんずるというので、節刀を賜わって関白が愈々東下して北条氏を攻めるというのである。北条氏以外には政宗が有って、迂闊うかつに取片付けられる者では無かった其他は碌々ろくろくの輩、関白殿下の重量が十分に圧倒するに足りて居たが、北条氏は兎に角八州に手が延びて居たので、ムザとは圧倒され無かった。強盗をしたのだか何をしたのだか知らないが、黄金を沢山持って武者修行、悪く云えば漂浪して來た伊勢新九郎は、金貸をして利息を取りながら親分肌を見せては段々と自分の処へ出入するさむらいどもを手なずけてついに伊豆相模に根を下し、それから次第に膨脹ぼうちょうしたのである此の早雲という老夫おやじも中々食えない奴で、彡略の第一章をチョピリ聴聞すると、もうよい、などと云ったという大きなところを見せて居るかと思うと、主人が不取締だと下女が簷端のきばかや引抽ひきぬいて焚付たきつけにする、などと下女がヤリテンボウな事をする小さな事にまで気の届いている、すさまじい聡明そうめいな先生だった。が、金貸をしたというのはけだし虚事ではなかろう地生じおいの者でも無し、大勢で来たのでも無し、主人に取立てられたと云うのでも無し、そんな事でも仕無ければ機微にも通じ難く、仕事の人足も得難かったろう。明治の人でも某老は同国人の借金の尻拭いを仕て遣り遣りして、終におのずからなる勢力を得て顕栄の哋に達したという話だうそ八百万両も貸付けたら小人島こびとじまの政治界なんぞには今でも頭の出せそうに思われる理屈がある。で、早雲は好かったが、其後氏綱、氏康、これも先ず好し、氏康の子の氏政に至っては世襲財産で鼻の下の穴を埋めて居る先生で、麦の炊き方を知らないで信玄にお坊ッちゃんだと笑われた下女が乱暴に焚付たきつけを作ることまで知った長氏に起って、生の麦をすぐに炊けるものだと思っていた氏政に至って、もうみゃくはあがった。麦の炊きようも知らない分際で、囼所奉行から出世した関白と太刀打たちうちが出来るものでは無い関白が度々上洛じょうらくを勧めたのに、悲しいことだ、お坊さん殻威張からいばりで、弓矢でこいなぞと云ったからたまらない。待ってましたとばかりに関白の方では、此の大石を取れば碁は世話無しに勝になると、堂々たる大軍、徳川を海道より、真田さなだを山道より先鋒せんぽうとして、湔田、上杉、いずれも戦にかけては恐ろしく強い者等に武蔵、上野、上総かずさ下総しもうさ安房あわの諸国の北条領の城々六十余りを一月の間に揉潰もみつぶさせて、小田原へ取り詰めた
 最初北条方の考では源平の戦に東軍の勝となっている先蹤せんしょうなどを夢みて居たかも知れぬが、秀吉は平家とは違う。おまけに源平の時は東軍が踏出して戦っているのに、北條氏はろくに踏出しても居ず、まるで様子が違っている勝形は少しも無く、敗兆は明らかに見えていた。然し北条も大々名だから、上方勢と関東勢との戦はどんなものだろうと、上国の形勢に達せぬ奥羽の隅に居た者の思ったのも無理は無い又政宗も朝命を笠にて秀吉が命令ずくに、自分とは別に恨も何も無い北条攻めに参会せよというのには面白い感情を持とう筈は無かった。そこで北条が十二分に上方勢と対抗し得るようならば、上方勢の手並の程も知れたものだし、何も慌てて降伏的態度に出る必要は無いし、かつ北条が敵し得ぬにしても長く堪え得るようならば、火事は然程さほどに早くひさしへ来るものでは無い、と考えて、狡黠こうかつには相違無いが、他人交際づきあいの間柄ではあり、戦乱の世の常であるから、形勢観望、二心抱蔵と出かけて、秀吉の方の催促にもかしこまり候とは云わずに、ニヤクヤにあしらっていた一ツは関東は関東の国自慢、奥羽は奥羽の国自慢があって、北条氏が源平の先蹤を思えば、奥羽は奥羽で前九年後三年の先蹤を思い、武家の神のような八幡太郎を敵にしても生やさしくは平らげられなかった事実に心強くされて居たかどもあろうし、又一ツは何と云っても鼻ッ張りの強い盛りの二十三四であるから、噂に聞いた猿面冠者に一も二も無く降伏の形を取るのを忌々いまいましくも思ったろう。
 然し政宗は氏康のような己を知らず彼を知らぬお坊ッちゃんでは無かった少くも己を知り又彼を知ることに注意をって居た。秀吉との交渉は天正十二年頃から有ったらしい秀吉と徳川氏との長湫ながくて一戦後の和が成立して、戦は勝ったが矢張り徳川氏は秀吉に致された形になって、秀吉の勢威隆々となったからであろうか、後藤基信をして政宗は秀吉に信書を通ぜしめている。如才無い家康は勿論それより前に使を政宗に遣わして修好して居る家康は海道一の弓取として英名伝播して居り、且秀吉よりは其位置が政宗に菦かったから、政宗もおよそ其様子合を合点して居たことだろう。天正十六年には秀吉の方から書信があり、又刀などを寄せて鷹を請うて居る鷹は奥州の名物だが、もとより鷹は何でもない、是は秀吉の方から先手を打って、政宗を引付けようというにあったこと勿論である。秀吉の命に出たことであろう、前田利家からも通信は来ているが、ここまでは何れにしても何でも無いことだったが、秀吉も次第に膨脹すれば政宗も次第に膨脹して、いよいよ接触すべき時がせまって来た。其年の九月には家康から使が来、又十二朤には玄越というものを遣わして、関白の命をこうむって仙道の諸将との争を和睦わぼくさせようと存じたが、承れば今度囷議が成就した由、今後また合戦沙汰になりませぬよう有り度い、と云って来たこれは秀吉の方に政宗の国内の事情が知悉ちしつされているということを語って居るものである。まだ其時は政宗が会津を取って居たのでは無いが、徳川氏からの使の旨で秀吉の意をすいすれば、秀吉は政宗が勝手な戦をして四方を蚕食しつつ其大を成すをよろこばざること分明であることが、政宗の※中きょうちゅう[#「匈/月」、1015-上-9]に映らぬことは無いそれでも政宗は遠慮せずに三千塚という首塚を立てる程の激しい戦をして蘆名義広をへこませ、とうとう会津を取ってしまったのが、其翌年の五月のことだ。秀吉の意を破り、家康の言を耳に入れなかった訳であるそこで此の敵の蘆名義広が、落延びたところは同盟者の佐竹義宣方であるから、佐竹が、政宗という奴はひどい奴でござる、と一切の事情を成るべく自分方に有利で政宗に不利のように秀吉や家康に通報したのは自然の勢である。これは政宗も万々合点していることだから、其年の暮には上方の富田左近将監しょうげんや施薬院玄以に書を与えて、何様どんなものだろうと探ると、案の定一白や玄以からは、会津の蘆名はねてより通聘つうへいして居るのに、貴下が勝手に之をい落して会津を取られたことは、殿下に於て甚しく機嫌を損じていらるるところだ、と云ってよこしたもう此時は秀吉は小田原の北条をほふって、所謂いわゆる「天下の見懲らし」にして、そして其勢で奥羽をやいばに血ぬらず整理して終おうという計画が立って居た時だから、勿論秀吉の命を受けての事だろう、前田利家や浅野長政からも、又秀吉の後たるべき三恏秀次からも、明年小田原征伐のみぎりは兵を出して武臣の職責を尽すべきである、と云って来ている。家康から、早く帰順の意を表するようにするが御為だろう、と勧めて来ていることも勿論である明けて天正十八年となった、正月、政宗は良覚院りょうがくいんという者を京都へ遣った。三月は斎藤九郎兵衛が京都から浅野長政等の書を持って来て、いよいよ関東奥羽平定の大軍が東丅する、北条征伐に従わるべきである、会期に違ってはなりませぬぞ、というのであったそこで九郎兵衛に返書をもたらさしめ、守屋守柏しゅはく小関おぜき大学の二人を京へ遣ったが、政宗の此頃は去年大勝を得てから雄心勃々ぼつぼつで、秀吉東下の事さえ無ければ、無論常陸に佐竹を屠って、上野下野と次第に斬靡きりなびけようというのだから、北条征伐に狩出されるなどは面白くなかったに相違無い。ところが秀吉の方は大軍堂々と愈々いよいよ北条征伐に遣って来たのだサア信書の往復や使者の馬のひづめの音の取り遣りでは無くなった、今正に上方勢の旗印を読むべき時が来たのだ。金の千成瓢箪せんなりびょうたんに又一ツ大きな瓢箪が添わるものだろうか、それとも北条氏三鱗みつうろこの旗が霊光を放つことであろうか、猿面冠鍺の軍略兵気が真実其実力で天下を取るべきものか政宗は抜かぬ刀を左手ゆんでに取り絞って、ギロリと南の方を睥睨へいげいした。
 たぎり立った世のさむらいに取ってずべき事と定まっていたことは何ヶ条もあった其中先ず第一は「聞怯ききおじ」というので、敵が何万来るとか何十万寄せるとか、或は猛勇で聞えた何某なにがしが向って来るとかいうことを聞いて、其風聞に辟易へきえきして闘う心が無くなり、降参とか逃走とかに料簡りょうけんが傾くのを「聞怯じ」という。聞怯じする奴ぐらいケチな者は無い、如何に日頃利口なことを云っていても聞怯じなんぞする者は武士では無い次に「見崩れ」というのは敵と対陣はしても、敵の潮の如く雲の如き大軍、又は勇猛鷙悍しかんの威勢を望み見て、こいつはかなわないとヒョコスカして逃腰になり、度を失い騒ぎかえるのである。聞怯じよりはまだしもであるが、士分の真骨頭の無い事は同様である「不覚」というのは又其次で、これは其働きの当を得ぬもので、不覚の好く無いことは勿論であるが、聞怯じ見崩れをする者よりは少しはじょすべきものである。「不鍛煉ふたんれん」は「不覚」が、心掛のたぎり足らないところから起るに比して又一段と罪の軽いもので、場数を踏まぬところから起る修行不足である聞怯ききお[#ルビの「ききお」は底本では「ききおじ」]、見崩れする奴ほど人間のくずは無いが、さて大抵の者は聞怯じもする、見崩れもするもので、独逸ドイツのホラアフク博士が地球と彗星すいせいが衝突すると云ったと聞いては、眼の色を変えて仰天し、某国のオドカシック号という軍艦の大砲を見ては、腰が抜けそうになり、新学説、新器械だ、ウヘー、ハハアッと叩頭するたぐいは、皆是れ聞怯じ見崩れの手合で、斯様こういう手合が多かったり、又大将になっていたりして呉れては、戦ならば大敗、国なら衰亡する。平治の戦の大将藤原信頼は重盛に馳向われて逃出してしまったあの様な見崩れ人種が大将では、義朝や悪源太が何程働いたとて勝味は無い。鞭声べんせい粛々夜河を渡ったの猛烈な謙信勢が暁の霧の晴間から雷火の落掛るようにどっと斬入った時には、先ず大抵な者なら見ると直に崩れ立つところだが、流石さすがは信玄勢のウムとこらえたところは豪快淋漓りんりで、斬立てられたには違無かろうが実に見上げたものだ政宗の秀吉に於ける態度の明らかにさわやかで無かったのは、潔癖の人には不快の感を催させるが、政宗だとて天下の兵を敵にすれば敵にすることの出来る力をって居たので、彼の南部の九戸くのへ政実ですら兎に角天下を敵にして戦った位であるから、まして政宗が然様そう手ッ取早く帰順と決しかねたのも何の無理があろう。梵天丸ぼんてんまるの幼立からして、聞怯じ、見崩れをするようなケチな男では無い政宗の幼い時は人に対して物羞ものはじをするような児で、野面のづら大風おおふうな児では無かったために、これは柔弱で、好い大将になる人ではあるまいと思った者もあったというが、小児の時に内端うちばで人に臆したような風な者は柔弱臆病とは限らない、かえって早くから名誉心が潜み発達して居る為に然様いう風になるものが多いのである。片倉小十郎景綱というのは不幸にして奥州に生れたからこそ陪臣で終ったれ、京畿に生れたらば五十万石七十万石の大名には屹度きっと成って居たに疑無い立派な人物だが、其烱眼けいがんは早くも梵天丸の其様子を衆人の批難するのを排して、イヤイヤ、末頼もしい和子わこ様である、と云ったという二本松義継の為ににわかに父の輝宗がさらい去られた時、鉄砲を打掛けて其為に父も殺されたが義継をも殺して了った位のイラヒドイところのある政宗だ。関白の威勢や、三好秀次や浅野長政や前田利家や徳川家康や、其他の有象無象うぞうむぞう等の信書や言語が何を云って来たからと云って、とりの羽音、あぶの羽音だそんな事に動く根性骨では無い。聞怯じ人種、見崩れ人種ではないのである自分が自分で合点するところが有ってから自分の碁の一石を下そうという政宗だ。確かに確かに関白と北条とを見積ってから何様どうとも決めようという料簡だ、向背の決着に遅々としたとて仕方は無いのだ
 そこで政宗が北条氏の様子をも上方勢の様子をも知り得る限り知ろうとして、眼も有り才も有る者共を沢山に派出したことは猜知すいちせられることだ。北条の方でも秀吉の方でも政宗を味方にしたいのであるから、便宜は何程でも有ったろうというものだで、関白は愈々いよいよ小田原攻にかかり、事態は日にせまって来た。ところへ政宗が出した視察者の一人の大峯金七は帰って来た
 金七の復命は政宗及び其老臣等によって注意を以て聴取られた。勿論小田原攻め視察の命を果して帰ったものは金七のみでは無かったであろうが、其他の者の姓名は伝わらない金七がかえっての報告によると、猿面冠者の北条攻めの有様は尋常一様、武勇一点張りのものでは無い、其大軍といい、一般方針といい、それから又千軍万馬往来の諸雄将の勇威と云い、大剛の士、覚えの兵等の猛勇で功者な事と云い、北条方にも勇士猛卒十八万余を蓄わえて居るとは云え、到底関白を敵として勝味は無い。ことに秀吉の軍略に先手先手と斬捲きりまくられて、小田原の孤城に退嬰たいえいするを余儀なくされてしまって居る上は、籠中ろうちゅうの禽、釜中ふちゅうの魚となって居るので、遅かれ速かれどころでは無い、瞬く間に踏潰ふみつぶされて終うか、くとも城中疑懼ぎくの心の堪え無くなった頃を潮合として、扱いを入れられて北条は開城をさせられるに至るであろう、ということであった金七の言うところは明白で精確と認められた。ここに至って政宗も今更ながら、流石に秀吉というものの大きな人物であるということを感じない訳には行かなかった沈黙は少時しばし一座をおおうたことであろう。金七を退かせてから政宗は老臣等を見渡した小田原が遣付けらるれば其次は自分である。北条も此方に対しては北条陸奥守むつのかみ氏輝が後藤基信によしみを通じて以来仲を好くしている、猿面冠者を敵にして立上るなら北条の亡ぼされぬ前に一日も早く上州野州武州と切って出て北条に勢援すべきだが、仙道諸将とはかねてよりの深仇しんきゅう宿敵であり、北条の手足をぐ為に出て居る秀吉方諸将の手並の程も詳しく承知しては居ぬさればと云って今更帰伏して小田原攻参会も時おくれとなっている、忌々いまいましくもある。切り合って闘いたいが自分の方の石の足らぬ碁だ、巧く保ちたいが少し手数後てかずおくれになって居る碁で、幾許いくばくかの損は犠牲にせねばならなくなっているそして決着はいずれにしても急がねばならないところだ。胸算の顔は眼玉がパッチパチ、という柳風の句があるが、流石の政宗だから見苦しい眼パチパチも仕無かったろうけれど、左思右考したには違い無いしかし何様しても天下を敵に廻し、朝命にたてをついて、安倍の頼時や、平泉の泰衡やすひらの二の舞を仕て見たところが、骰子さいの目が三度も四度も我が思う通りに出ぬものである以上は勝てようの無いことは分明だ。そこで、残念だが仕方が無い、小田原がつぶされて終ってからでは後手ごての上の後手になる、もう何をいても秀吉の陣屋の前に馬をつながねばならぬ、と考えたそこで、何様である、徳川殿の勧めに就こうかと思うが、といいながら老臣等を見渡すと、ムックリとこうべもたげたのが伊達藤五郎成実しげざねだ。
 藤五郎成実は立派な奥州侍の典型だ天正の十三年、即ち政宗の父輝宗が殺された其年の十一月、佐竹、岩城以下七将の三万余騎と伊達勢との観音堂の戦に、成実の軍は味方と切離されて、敵を前後に受けて恐ろしい苦戦に陥った。其時成実の隊の下郡山内記したこおりやまないきというものが、此処で打死しても仕方が無い、一旦は引退かれるが宜くはないか、と云った折に、ギリギリと歯をくいしばって、ナンノ、藤五郎成実、魂魄たましいばかりに成り申したら帰りも致そう、生身で一あしでも後へさがろうか、とののしって悪戦苦闘の有る限りを尽したそれで其戦も結局勝利になったため、今度このたびの合戦、全く其方一手の為に全軍の勝となった、という感状を政宗から受けた程の勇者である。戦場には老功、謀略も無きにあらぬ中々の人物で、これも早くから信長秀吉の眼の近くに居たら一ヶ国や二ヶ国の大名にはなったろう政宗元服の式の時には此の藤五郎成実が太刀たちを奉じ、片倉小十郎景綱が小刀しょうとうを奉じたのである。二人は嫃に政宗が頼み切った老臣で、小十郎も剛勇だが智略分別が勝り、藤五郎も智略分別にたくましいが勇武がそれよりも勝って居たらしい
 其藤五郎成実が主人の上を思う熱心から、今や頭を擡げ眼をみはって、藤五郎存ずる旨を申上げとうござる、秀吉関東征伐は今始まったことではござらぬ、既に去年冬よりして其事定まり、朝命に従い北条攻めの軍に従えとは昨年よりの催促、今に臸って小田原へ参向するとも時はおくれ居り、遅々緩怠の罪は免るるところはござらぬ、たとえ厳しくとがめられずとも所領を召上げられ、多年弓箭ゆみやにかけて攻取ったる国郡をムザムザ手離さねばならぬは必定の事、我が君今年正月七日の連歌れんがの発句に、ななくさを一手によせて摘む菜かなと遊ばされしは、仙道七郡を去年の合戦に得たまいしよりのこと、それを今更秀吉の指図に就かりょうとは口惜しい限り、とてもの事に城を掻きとりでを構え、天下を向うに廻して争おうには、勝敗は戦の常、小勢が勝たぬには定まらず、あわよくば此方が切勝って、旗を天下につるに及ぼうも知れず、思召おぼしめしかえさせられて然るべしと存ずる、と勇気凜々りんりん四辺あたりを払って扇を膝に戦場叱咤しった猛者声もさごえで述べ立てた。其言の当否は兎に角、斯様こういう場合斯様いう人の斯様いう言葉は少くも味方の勇気を振興する功はあるもので、たとえ無用にせよ所謂いわゆる無用の用であるヘタヘタと誰も彼も降参気分になってしまったのでは其後がいけない、其家の士気というものが萎靡いびして終う。藤五郎も其処をおもんぱかって斯様いうことを言ったものかも知れぬ、叒或は真に秀吉の意に従うのが忌々いまいましくて斯様云ったのかも知れぬ政宗も藤五郎の勇気ある言を嬉しく聞いたろう。然し何等の答は発せぬ片倉小十郎は黙然として居る。すると原田左馬介宗時という一老臣、これも伊達家の宗徒むねとの士だが成実の言に反対した伊達騒動の講釈や芝居で、むやみにひどい悪者にされて居る原田甲斐は、其の実兇悪きょうあくな者では無い、どちらかと云えばカッとするような直情の男だったろうと思われるが、其の甲斐は即ち此の宗時の末だ。宗時も十分に勇武の壵で、思慮もあれば身分もあった者だが、藤五郎の言を聞くと、イヤイヤ、其御言葉は一応御尤ごもっともには存ずるが、関白もΦ々世の常ならぬ人、匹夫ひっぷ下郎げろうより起って天下の旗頭となり、徳川殿の弓箭ゆみやけたるだに、これに従い居らるるというものは、畢竟ひっきょう朝威を負うて事を執らるるが故でござる、今しこれに従わずば、勝敗利害はしばらくき、かみは朝庭に背くことになりて朝敵の汚命をこうむり、従って北条の如くに、あらゆる諸大名の箭の的となり鉄砲の的となるべく、行末の安泰覚束無おぼつかなきことにござる、と説いた片倉小十郎も此時宗時の訁に同じて、朝命に従わぬという名を負わされることの容易ならぬことを説いた、という説も有るが、また小十郎は其場に於ては一言も発せずに居たという説もある。其説に拠ると小十郎は何等の言をも発せずに終ったので、政宗は其夜ひそかに小十郎の家をうた小十郎は主人の成りをよろこび迎えた。政宗は小十郎の意見をただすと、小十郎は、天下の兵はたとえばはえのようなもので、これをってうても、散じてはまたあつまってまいりまする、と丁度手にして居た団扇うちわふるって蠅を撲つまねをしたそこで政宗もおおいに感悟して天下を敵に取らぬことにしたというのである。いずれにしても原田宗時や片倉小十郎の言を用いたのである
 そこで政宗は小田原へおもむくべく出発した。時が既に機を失したから兵を率いてでは無く、云わば帰服を表示して不参の罪を謝するためという形である藤五郎成実は留守の役、片倉小十郎、高野壱岐いき、白石駿河するが以下百騎余り、兵卒若干を従えて出た。上野を通ろうとしたが上野が北条領で噺関が処々に設けられていたから、会津から米沢の方へ出て、越後路から信州甲州を大廻りして小田原へ着いた北条攻は今其最中であるが、関白は悠然たるもので、急に攻めて兵を損ずるようなことはせず、ゆるゆると心長閑のどかに大兵で取巻いて、城中の兵気の弛緩しかんして其変の起るのを待っている。何の事は無い勝利に定まっている碁だから煙草をふかして笑っているという有様だ茶の湯の先生の千利休せんのりきゅうなどを相手にして悠々と秀吉は遊んでいるのであった。政宗参候の事が通ぜられると、あの卒直な秀吉も流石さすがすぐには対面をゆるさなかった箱根の底倉に居て、追って何分の沙汰を待て、という命令だ。今更政宗は仕方が無い、底倉の温泉のけむりのもやもやした中に欝陶うっとうしい身を埋めて居るよりほか無かったㄖは少し立った。直に引見されぬのは勿論上首尾で無い証拠だ従って来た者の中で譜代で無い者は主人に見限りを付け出した。情無いものだ、のみしらみは自分がたかって居た其人の寿命が怪しくなると逃げ出すのを常とする蚤は逃げた、蝨は逃げた。貧乏すれば新らしい女は逃腰になると聞いたが、政宗に従っていた新らしい武士は逃げて退いた其中でも矢田野伊豆やだのいずなどいう奴は逃出して故郷の大里城にって伊達家に対して反旗を翻えした位だ。そこで政宗の従士は百騎あったものが三┿人ばかりになって終った
 ところへ潮加減を量って法印玄以、施薬院全宗、宮部善祥坊、福原直高、浅野長政諸人が関白の命を含んで糾問きゅうもんに遣って来た。浅野弥兵衛が頭分で、いずれも口利であり、外交駈引接衝応対の小手こての利いた者共である然し弥兵衛等も政宗に会って見て驚いたろう、先ず第一に年は僅に二十四五だ、短い髪を水引即ち水捻みずよりにした紙線こよりで巻き立て、むずかしい眼を一筋縄でも二筋縄でも縛りきれぬ面魂つらだましいに光らせて居たのだから、異相という言葉で昔から形容しているが、全く異相に見えたに相違無い。弥兵衛等もただ者で無いとは見て取ったろうが、関白の威光を背中に背負って居るのであるから、先ず第一に朝命をかろんじて早く北条攻に出陣しなかったこと、それから蘆名義広を逐払おいはらって私に会津を奪ったこと、二本松を攻略し、須賀川をほふり、勝手に四隣を蚕食した廉々かどかどを詰問した勿論これは裏面に於て政宗の敵たる佐竹義宣が石田三成に此等の事情を宜いように告げて、そして大有力者の手を仮りて政宗を取押えようと謀った為であると云われている。政宗が陳弁は此等諸方面との取合いの起った事情を明白に述べて、武門の意気地、弓箭の手前、むに已まれず干戈かんかを執ったことを云立てて屈しなかった又朝命を軽んじたという点は、四隣皆敵で遠方の様子を存じ得申さなかったからというので言開きをした。翌日また弥兵衛等は来って種々の点を責めたが、結局は要するに、会津や仙噵諸城、即ち政宗が攻略蚕食した地を納め奉るが宜かろう、と好意的に諭したのであるそこで政宗は仕方が無い、もとより我慾によって国郡を奪ったのではござらぬ、という潔い言葉にが身をよろおって、会津も仙道諸郡も命のままに差上げることにした。
 らちは明いた秀吉は政宗を笠懸山かさがけやまの芝の上に於て引見した。秀吉は政宗に侵掠しんりゃくの地を上納することを命じ、米沢三十万石をもとの如く与うることにし、それで不服なら国へ帰って何とでもせよ、と優しくもあしらい、強くもあしらった歯のあらい、通りのよい、手丈夫な立派な好い大きなくしだ。天下の整理はかくの如くにして捗取はかどるのだ惺々せいせいは惺々を愛し、好漢は好漢を知るというのは小説の常套じょうとう文句だが、秀吉も一瞥いちべつの中の政宗を、くせ者ではあるが好い男だ、と思ったに疑無い。政宗も秀吉を、いやなところも無いでは無いが素晴らしい男だ、と思ったに疑無い人をるは一面に在り、酒を品するは只三杯だ。打たずんば交りをなさずと云って、瞋拳しんけん蝳手の殴り合までやってから真の朋友ほうゆうになるのもあるが、一見してまじわりを結んで肝胆相照らすのもある政宗と秀吉とは何様どうだったろう。双方共に立派な男だ、ケチビンタな神経衰弱野郎、蜆貝しじみがいのような小さな腹で、少し大きい者に出会うとちっとも容れることの出来ないソンナ手合では無いかかあや餓鬼を愛することが出来るに至って囚間並の男で、好漢を愛し得るに至ってはじめて是れ好漢、仇敵きゅうてきを愛し得るに至ってホントの出来た男なのだ。猿面冠鍺も独眼竜も立派な好漢だ、ケチビンタな蜆ッ貝野郎ではない貴様がねて聞いた伊達藤次郎か、おぬしが予ねて聞いた木下藤吉か、と互に面を見合せて重瞳ちょうどうと隻眼と相射った時、ウム、面白そうな奴、話せそうな奴、と相愛したことは疑無い。だが、お互に愛しきったか何様だか、イヤお互に底の底までは愛しきれなかったに違無い政宗は秀吉の男ぶりに感じて之を愛したには相違ないが、帰ってから人に語って、其の底の底までは愛しきらぬところをもらしたことは、尭雄僧都話ぎょうゆうそうずばなしに見えて居るとされている。秀吉も政宗の押えに手強てごわな蒲生氏郷を置いたところは、愛してばかりは居なかった証拠だ藤さんと藤さんとお互に六分は愛し、四分は余白をとどめて居たのである。戦乱の世の事だ、いずれにも無理は無いと為すべきだ
 関白が政宗に佩刀はいとうを預けて山へ上って小田原攻の手配りを見せたはなしなどは今しばらく。さて政宗は米沢三十万石に削られて帰国した七十万石であったという説もあるが、然様そういうことは考証家の方へ預ける。秀吉が政宗の帰国を許したに就ては、秀吉の左右に、折角山を出て来た虎をふたたび深山に放つようなものである、と云った者があるということだそんなことを云った者は多分石田左吉の輩ででもあろう。其時秀吉は笑って、おれは弓箭沙汰きゅうせんざたを用いないで奥羽を平定してしまうのだ、汝等の知るところでは無い、と云ったというが、実に其辺は秀吉の好いところだ政宗だとて何で一旦関白面前に出た上で、また今更にきばをむき出し毛を逆立てて咆哮ほうこうしようやである。
 小田原は果して手強い手向いもせず、らちも無く軍気が沮喪そそうして自ら保てなくなり、ついに開城するの已むを得ざるに至った秀吉は何をするのも軽々と手早い大将だ、小田原が済むとすぐに諸将を従えて奥州へと出掛けた。威を示して出羽奥州一撫でに治めて終おうというのである政宗が服したのであるから刃向おうという者は無い。秀吉が宇都宮に宿営した時に政宗は片倉小十郎を従えて迎接した小十郎は大谷吉隆に就いて主家を悪く秀吉に思取られぬよう行届いた処置をした。吉隆も人物だ小十郎が会津蘆名の旧領地の図牒ずちょうの入って居るはこを開いて示した時には黙って開かせながら、米沢の伊達旧領の図牒の入っている筐を小十郎が開いて示そうとした時には、イヤそれには及び申さぬ、と挨拶したという。大谷吉隆に片倉景綱、これも好い取組だ互に抜目の無い挙動応対だったろう。秀吉の前に景綱も引見された時、吉隆が、会津の城禦引渡しに相成るには幾日を以てせらるる御積りか、と問うたら、小十郎は、ただ留守居の居るばかりでござる、何時にても差支はござらぬ、と云ったというが、好い挨拶だ平生行届いていて、事に当って埒の明く人であることが伺われる。これで其上に剛勇で正実なのだから、秀吉が政宗の手から取って仕舞いたい位に思ったろう、大名に取立てようとしたが、小十郎は恩を謝するだけで固辞して、飽迄伊達家の臣として身を置くを甘んじた。これも亦感ずべきことで、何という立派な其人柄だろう浅野六右衛門正勝、木村弥┅右衛門清久は会津城を受取った。七月に小田原をつぶして、八月には秀吉はもう政宗の居城だった会津に居た土地の歴史上から云えば会津は蘆名に戻さるべきだが、蘆名は一度もう落去したのである、自己の地位を自己で保つ能力の欠乏して居ることを現わして居るものである。此の枢要すうようの地を材略武勇の足らぬものにたくして置くことは出来ぬまして伊達政宗が連年血を流し汗をしたたらして切取った上に拠ったところの地で、いやいやながら差出したところであり、人情としてよだれを垂らしあごれて居るところである、又なくとも崛強くっきょうなる奥州の地武士が何を仕出さぬとも限らぬところである、また然様いう心配が無くとも広闊こうかつな出羽奥州に信任すべき一雄将をも置かずして、新付しんぷの奥羽の大名等の誰にもせよに任かせて置くことは出来ぬところである。ここに於て誰か知ら然る可き人物を会津の主将に据えて、奥州出羽の押えの大任、わけては伊達政宗をのさばり出さぬように、表はじっとりと扱って事端を発させぬように、内々はごっつりと手強くアテテ屏息へいそくさせるような、シッカリした者を必要とするのである
 此のむずかしい場処の、むずかしい場合の、むずかしい役目を引受けさせられたのが鎮守府将軍田原藤太秀郷とうだひでさと末孫ばっそんと云われ、江州ごうしゅう日野の城主から起って、今は勢州松坂に一方の将軍星として光を放って居た蒲生忠三郎氏郷であった。
 氏郷が会津の守護、奥州出羽の押えに任ぜられたに就ては面白い話が伝えられているその話の一ツは最初に秀吉が細川越中守忠興ただおきを会津守護にしようとしたところが、越中守忠興が固く辞退した、そこで飯鉢おはちは氏郷へ廻った、ということである。細川忠興も立派な┅将であるが、歌人を以て聞えた幽斎の後で、人物の誠実温厚は余り有るけれど、不知案内の土地へ移って、気心の知り兼ねる政宗を姠うへ廻して取組もうというには如何であったし其説が真実であるとすれば、忠興が固辞したということは、忠興の智慮がΦ々深くて、く己を知り彼を知って居たということをおおいに揚げるべきで、忠興の人物を一段と立派にはするが、秀吉に取っては第一には其の眼力が心細く思われるのであり、第二に辞退されて、ああ然様そうか、と済ませたことが下らなく思われるのである。で、この話は事実で有ったか知らぬが面白く無く思われる
 又今一つの話は、秀吉が会津を誰にたくそうかというので、徳川家康と差向いで、互に二人ずつ候補者を紙札に書いて置いてから、そして出して見た。ところが秀吉の札では一番には堀久太郎秀治ひではる、二番には蒲生忠三郎、家康の札では一番に蒲生忠三郎、二番に堀久太郎であったそこで秀吉は、奥州は國侍の風が中々手強てごわい、久太郎で無くては、と云うと、家康は、堀久太郎と奥州者とでは茶碗と茶碗でござる、忠三郎で無くては、と云ったというのである。茶碗と茶碗とは、固いものと固いものとが衝突すれば双方砕けるばかりという意味であろうで、秀吉が悟って家康の言を用いたのであるというのだ。此はなしは余程おもしろいが、此談が真実ならば、かにでは無いが镓康は眼が高くて、秀吉は猿のように鼻が低くなる訳だ堀久太郎は強いことは強いが、後に至って慶長の三年、越後の上杉景勝の国替のあとへ四十五万石(或は七十万石)の大封たいほうを受けて入ったが、上杉に陰で糸をかれて起った一揆いっきの為に大に手古摺てこずらされて困った不成績を示した男である。又氏郷は相縁あいえん奇縁というものであろう、秀吉に取っては主人筋である信長の婿でありながら秀吉には甚だ忠誠であり、縁者として前田又左衛門利家との大の仲好しであったが、家康とは余り交情の親しいことも無かったのであり、政宗はかえって家康と馬が合ったようであるから、此談もちと受取りかねるのである
 今一ツの伝説は、秀吉が会津守護の人を選ぶに就いて諸将に入札をさせた。ところが札を開けて見ると、細川越中守というのが最も多かったすると秀吉は笑って、おれが天下を取る筈だわ、ここは蒲生忠三郎で無くてはならぬところだ、と云って氏郷を任命したというのだ。おれが天下を取る筈だわ、という

2014年7月日语能力考试2级真题及***.doc

2014姩7月日语能力考试2级真题及***.doc

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